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東京高等裁判所 平成4年(ネ)1834号 判決

控訴人(原告) 今井文夫

右訴訟代理人弁護士 本多清二

被控訴人(被告) 日本生命保険相互会社

右代表者代表取締役 足立信之

右訴訟代理人弁護士 藤井正博

松澤建司

主文

一、本件控訴を棄却する。

二、控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由

第一、当事者の求めた裁判

一、控訴人

1. 原判決を取り消す。

2. 控訴人の被控訴人に対する昭和六一年七月二日付金銭貸借契約(貸付元本二七万七〇〇〇円)に基づく債務が存在しないことを確認する。

3. 訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

二、被控訴人

主文と同旨

第二、事案の概要

本件事案の概要は、原判決の「第二 事案の概要」に記載のとおりであるから、これを引用する。

第三、争点に対する判断

一、代理権授与について

代理権授与についての当裁判所の認定判断は、原判決四枚目裏六行目の冒頭から同五枚目表二行目の末尾まで記載のとおり(ただし、原判決四枚目裏九行目の「支払っている者」の次に「(保険料の支払いを自動払込に変更する旨の契約を締結することも含む。)」を加える。)であるから、これを引用する。

二、追認について

控訴人が和子による本件貸付を追認したことを認めるに足りる証拠はない。なるほど、証拠(甲一、二、八、乙二、控訴人本人(原審・当審))によれば、控訴人は、勤務先から支給される給料を全部和子に渡し、小遣いを貰う程度で、家計の管理一切を和子に任せており、銀行預金の出し入れ、預金通帳や印鑑の保管も和子に一任していたこと、昭和六一年七月からは、控訴人の給料は太陽神戸銀行砂町支店にある控訴人名義の預金口座への振込となったこと、本件保険契約に基づく保険料の支払いは右預金口座からの自動引落しによって行われていたこと、本件貸付金も右預金口座に振り込まれたこと、和子は、本件貸付金を右預金口座から引き出し、その多くを家計のために費やしたことが認められるが、控訴人がその当時本件貸付金が家計のために用いられたことを認識していたことを認めるに足りる証拠がなく(却って、甲八によれば、右引出後においても、控訴人らの生活に特に変化がないことが認められる。)、右各事実から控訴人が和子による本件貸付を追認したことを推認することは困難である。

三、表見代理について

被控訴人は、民法一一〇条の表見代理を主張するが、和子が本件貸付当時控訴人から何らかの代理権(基本代理権)を与えられていたことを認めるに足りる証拠はない。

被控訴人は、まず、和子が本件保険契約を締結する代理権を有していたと主張するが、証拠(甲三、乙五、一二、証人佐々木千枝子、控訴人本人(原審・当審))に前示認定の事実を総合すれば、控訴人は、和子や和子の母であり、当時被控訴人の外交員であった佐々木千枝子(以下「佐々木」という。)の勧めで、本件保険契約を締結することとしたこと、本件保険契約の申込書(乙五)は、昭和五二年三月三一日に、控訴人宅で、佐々木が控訴人の署名部分を含むすべての事項を記載し、和子が控訴人から預かっていた印鑑を押捺して作成したこと、控訴人は、右作成に同席していなかったが、和子らの右行為を認容していたこと、翌四月一日保険料が入金され、本件保険が成立したことが認められるのであって、右認定事実に佐々木が被控訴人を代理して本件保険契約を締結する権限を有していたことの主張も立証もないことを参酌すると、本件保険契約の申込みは和子の意思表示によってなされたのではなく、控訴人自身が乙五号証の申込書によってしたものと見るのが相当であり、和子の行為は控訴人に代行して押印したに止まるというべきであって、和子が本件保険契約の代理人の地位を有していたとは認めがたい。

次に、被控訴人は、和子が保険料の支払い等、本件保険契約の維持、保全に関する代理権を有していたと主張する。なるほど、前示認定のとおり、控訴人は、勤務先から支給される給料を全部和子に渡し、家計の管理一切を和子に任せており、銀行預金の出し入れ、預金通帳や印鑑の保管も和子に一任していたのであるが、これらの行為は、日常家事代理の部類に属するものであり、和子が本件貸付当時これらの権限を有していたことをもって、基本代理権とすることができない。さらに、証拠(甲二、控訴人本人(原審・当審))に前示認定の事実を総合すれば、和子は、毎月、控訴人のため本件保険契約に基づき保険料を支払っていたが、昭和五五年五月二七日からは、保険料の支払いは前示の控訴人名義の預金口座からの自動引落しによって行われたこと、右自動引落しに関する契約は和子が控訴人を代理して行ったことが認められるが、仮に、毎月の保険金の支払い又は自動引落し契約の締結に関する代理権が基本代理権となり得るとしても、昭和五五年五月にはいずれの行為も終了していて、本件貸付の当時、右代理権は既に消滅していたものといわなければならない。本件貸付の当時に行われていた自動引落し自体は、和子の意思を介在することなくなされるのであって、和子の代理行為を観念する余地はないし、和子が管理している預金口座から保険料が自動引落しされることについても、右口座の管理行為をもって保険料支払いの代理行為とすることができない。

なお、被控訴人が民法一一〇条と一一二条との併用による表見代理を主張しているとしても(さらに、仮に、本件保険契約が和子の代理行為により締結されたとしても)、右に示した保険金の支払行為や自動引落し契約の締結は、いずれも昭和五五年五月には(本件保険契約は、昭和五二年四月には)終了しており、その後数年を経て本件貸付がされているのであって、仮に被控訴人の担当者がこれらの代理権が本件貸付の当時も存続していると信じたとしても、無過失であるということができない。

そうすると、その余の点を判断するまでもなく、被控訴人の表見代理の主張は、理由がない。

四、民法四七八条の類推適用について

〈証拠〉によれば、

1. 本件保険契約に適用される普通保険約款には、保険契約者は解約返戻金の九割の範囲内で被控訴人から貸付を受けることができる旨が定められている(約款二〇条一項。契約者貸付制度)。

2. 和子は、昭和六一年七月二日、被控訴人の日本橋総支社に赴き、控訴人の代理人として契約者貸付制度に基づき本件貸付を申し込んだ。その際、和子は、同人の依頼に基づき佐々木が控訴人署名部分を含めその大部分を記載して作成した控訴人名義の委任状(乙三)、本件保険契約の保険証券及び前示保険契約申込書に押捺された控訴人の印鑑と同一の印鑑とこれに類似する印鑑を持参していた。被控訴人の担当者の指示に従い、和子は、委任状の控訴人名下及び本件貸付に関する借用金証書(乙二)の控訴人押印欄に右持参にかかる印鑑で押印したが、右印鑑の印影が保険契約申込書に押捺された控訴人の印影と相違したため、他の印鑑で再度押印した。被控訴人の担当者は、和子の持参した健康保険証により和子が控訴人の妻本人であることを確認し、委任状の控訴人の署名の筆跡及び右二度目の押印の印影が保険契約申込書の署名の筆跡及び印影といずれも一致したこと、並びに本件貸付金の振込先の銀行口座が控訴人名義の口座であることをそれぞれ確認した上で、和子に控訴人の代理権があると信じて、本件貸付を行った。

3. 平成四年四月一日に本件保険の満期が到来したことから、被控訴人は、控訴人に対し、満期保険金等満期に支払うべき金額から右貸付金の元利合計四二万〇四八一円を控除した五八万〇六六六円をもって満期保険金(据置金額)とする旨の通知を発した。

以上の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

このように、本件貸付は生命保険契約の約款に定められた契約者貸付制度に基づいて保険者が保険契約者に対して行われたものであるところ、前示の約款二〇条一項の定めは、保険契約者に対し右制度に基づき融資を申し込むことを権利として与えるものであって、その反面、被控訴人は、保険契約者からの貸付の申込があれば、約款に定める範囲内の金員を貸し付けなければならない義務を負担するものであるということができる。すなわち、通常の金銭消費貸借においては貸主として契約を締結するかどうかはその者の自由に委ねられているのに対し、右契約者貸付制度においては、貸主となるべき保険者にその自由がないのである。さらに、右契約者貸付制度に基づく貸付の金額は、解約返戻金の九割の範囲内とされており、このことから、保険金等の支払いの際に貸付金の元利が差し引かれることとなっていることが認められ、これらの点を総合すると、右契約者貸付制度に基づく貸付は、その経済的実質においては、保険金又は解約返戻金の一部前払いにほかならないということができる。

このようなことから、保険会社である被控訴人が保険契約者の代理人と称する第三者から、前示のような契約者貸付制度に基づく金銭貸付の申込みを受け、保険契約申込書の署名及び押印と同一の署名及び押印のある委任状の提示を受ける等の事由があるため、同人を右保険契約者の代理人と誤信してこれに応じ、その第三者に金銭を貸し付けた場合において、その後右貸付債権を自働債権とし保険金請求権又は解約返戻金請求権を受働債権として相殺をしたときは、少なくともその相殺の効力に関する限りは、これを実質的に保険金又は解約返戻金の一部前払いと同視するのが相当であるから、被控訴人が、当該貸付契約の締結に当たり、右第三者を保険契約者の代理人と認定するにつき、かかる場合にそのような貸付をする保険会社として負担すべき相当の注意義務を尽くしたと認められることを条件として、民法四七八条の規定を類推適用し、右第三者に対する貸金債権と保険金請求権又は解約返戻金請求権との相殺をもって保険契約者である控訴人に対抗することができるものと解するのが相当である(最高裁判所昭和三七年八月二一日第三小法廷判決・民集一六巻九号一八〇九頁、同昭和五九年二月二三日第一小法廷判決・民集三八巻三号四四五頁参照)。

そして、前示認定の事実によれば、和子は、被控訴人の担当者に保険契約申込書の署名と同一筆跡により署名された控訴人名義の委任状のほか、本件保険契約の保険証券や保険契約申込書に押捺された控訴人の印鑑を提示したのであるから、控訴人の真実の代理人であると信じさせるような外観を備えていたということができ、このことに、被控訴人は契約者貸付制度に基づき全国で年平均一〇〇万件を超える金銭貸付を行っていて(乙一三)、代理人による貸付の請求の際は常に本人に対して直接その意思を確認すべきものとするのは、被控訴人に対して過大な負担を負わせることとなって相当でないことを参酌すると、前示認定の被控訴人の担当者の行為は、右貸付をする保険会社として負担すべき相当の注意義務を尽くしたと評価することができる。なお、前示委任状には控訴人の押印がなく、かつ、和子が保険契約申込書に押捺されたものと類似の印鑑も持参しているが、保険契約申込書上の控訴人の印鑑はいわゆる三文判であり、このような場合は、保険契約者も印鑑の区別に迷い、複数の印鑑を持参することもあり得るところであって、右事実があるからといって、前示認定判断を左右するものではない。また、保険契約申込書上の保険契約者の署名は自署することが要求されているにもかかわらず、被控訴人の保険外務員であった佐々木が控訴人に代行して署名を行い、かつ、被控訴人の担当者がその署名と佐々木が署名した委任状(乙三)の署名とを対照しているのであるが、控訴人は、佐々木又は和子が保険契約申込書の署名を代行することを認容していたこと、前説示のとおり佐々木は被控訴人を代理して契約を締結する権限を有することの主張も立証もなく、佐々木の認識をもって被控訴人の認識とすることは困難であること、佐々木は昭和五三年六月に被控訴人の保険外務員を辞めており(乙一二)、その後数年を経て委任状の控訴人の署名を佐々木がしたことをもって被控訴人側の落ち度とすることはできないことから、前示各事実があるからといって、被控訴人が相当の注意義務を尽くしていないということができないし、被控訴人が相当の注意義務を尽くした旨主張しても信義に反するものではない。

以上によれば、被控訴人は本件貸金債権と満期保険金請求権とを対当額で相殺すれば、右相殺をもって保険契約者たる控訴人に対抗することができることが明らかである(なお、被控訴人が相殺の意思表示をする時点において和子が代理権を有していないことを知っていたとしても、これによって右結論に影響はない。)。被控訴人は本件貸付をすることは解約返戻金の弁済としての効力を有すると主張しており、右主張には、民法四七八条の規定の類推適用により和子に対する本件貸付の債権をもって被控訴人の解約返戻金と相殺し得るとの主張も含まれていることは明らかであるところ、前示認定の事実によれば、被控訴人は控訴人に対し相殺の意思表示をしたということができる。そして、前判示のとおり、被控訴人は、右相殺の効力に関する限り、本件貸付の債権を主張することができるから、その反面として、控訴人は、被控訴人に対し、右債権の不存在確認を求めることができないといわなければならない(仮に、被控訴人が未だ相殺の意思表示をしていない場合においても、前示認定判断によれば、被控訴人は控訴人に対しいつでも本件貸金債権が相殺の自働債権として存在することを主張し得るのであるから、控訴人がそのような債権の不存在確認を求めることは失当である。)。

第四、結論

よって、原判決は相当であり、本件控訴は理由がないからこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき民訴法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岩佐善巳 裁判官 稲田輝明 南敏文)

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